だって、実の親子だもの

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時刻はすでに11時近かった。
雑貨屋の表戸をどんどんとせわしなく叩きながら、泣き声で「おばさん、おばさん」と呼ぶ声には聞き覚えがあった。
すでに就寝していた雑貨屋のおかみは起き上がり、戸をあけて夜中の訪問者を迎えいれた。
それは近所の市営住宅に住む顔見知りの女であった。
女はおかみにしがみつくなり、「おばさん、父ちゃんを殺しちゃった」と言った。

おかみは絶句した。
実はこうなるかなり以前、おかみはこの女から「秘密」を聞かされて知っていたのである。

「あんたら夫婦、だいぶ歳が違うみたいだけど・・・」


そう水を向けると、彼女は意外なほどあっさり答えた。

「だって、実の親子だもの」と。

そして、また妊娠したらしくてこのところ気分が悪いのだ、とおかみにすがるようにして歩いた。
彼女はすでに半べそ顔だった。
16で妊娠して、次々に5人産んだ。
その後に妊娠中絶を4回やった。
今度もまたやることになるだろうが、あればっかりは何度やってもイヤだ、と――。

「じゃあ・・・いまの、そのお腹の子は?」

「父ちゃんのに決まってるでしょ」

「ずっと、そうなのかい?」

「14のときから、ずっと・・・」

それが去年の春のことである。
そんな以前からそれと聞かされていたおかみとしては、心がうずくものがあった。
しかしそれが本当なら、自分たちの力でどうにかなるものではない。
彼女は起き上がってきた亭主に警察に連絡するよう、うながした。
女も反対する様子はなく、大人しくうなだれていた。
やがて警察が来て、連行されていく彼女の背中に、雑貨屋のおかみは何度も叫んだ。

「ごめんね、すまんかったね」と。

こんなことになるのは目に見えていたのに、隣人としてどうして何もしてやれなかったのかと、おかみは繰り返し自分を責めては泣いた。

実は「目に見えていたのに」止めなかった人間はもうひとりいた。
被害者の正妻で、加害者の実母である老女である。
彼女は53歳になっていたが、土木作業の日雇いをして毎日の生計をたてていた。

「今回の事件については、いつかこうなるであろうことをかねがね予感しておりましたから、電話があったとき、ああついにあの子は父親を殺したな、とすぐ思いました。

いままでの事情を考えますと、充分有り得ることなのです」

さらに老母はこうも言った。

「わたしとしては殺された夫に対してはまったく同情はありません。
むしろ娘のほうが殺されずに済み、ほんとによかったと思っています。
これがもし反対だったら、わたしも子供(孫)らもどんなに辛かったか、わかりません」

老母の証言によると、被害者である父親は性的欲望は強かったものの、それまで夫婦生活はふつうのものであったという。
それが、長女が中学2年生になったとき、突然強引に彼女を犯したのである。
ひとたび関係ができると遠慮がなくなり、2,3日にいっぺんというペースで布団にしのんでくるようになる。
長女は1年近くこの苦行に耐えたが、やがてどうにもならなくなり、「父ちゃんがへんなことをしてくるよ」と母親に訴えた。
仰天した母が夫を問いつめると、彼は逆上してパン切りナイフを持って暴れ出した。

長女はとくに早熟ということもなく、異性に対しての興味が発達しているというわけでもなかった。
それに真面目な子で高校へ進学したいと言っていたし、母親もそのつもりだった。
だが父親は、「どこにも行かさんで、家に置く」と言い出した。
妻はたまりかねて、他の子供4人を連れて家出した。
長女は夫の監視が厳しく、とても連れ出せなかったのだ。
長女がやっと逃げてこれたのは中学を卒業してからだった。


母親は彼女を東京へ逃がす算段をつけようとしたが、計画なかばで父親が追いかけてきた。
そしてそのままずるずると居座り、そこでも長女に襲いかかった。
彼女が拒めば刃物を持ち出して暴れたし、妻の実家の男たちが押さえつけにかかると、自殺してやるとわめいた。
仕方なく、最後は長女が、「いいよ、父ちゃん、寝よう」

そう言ってなだめるしかないのだった。

16歳になったとき、母親の段取りで日雇い先の男と長女を駆け落ちさせた。
が、父親が必死に「娘が誘拐された」とふれまわって探しまわったため、情報を提供する者があらわれて、結局1週間もたたないうちに引き戻されてしまう。
さらに間の悪いことに、長女はもう実父の子を妊娠していた。
父親は市営住宅の一棟を借り、無理に長女を連れ出してここで出産させた。
以来12年、父娘はここで暮らすことになる。
この間、長女は5人の子を産み、2人は生後間もなく死亡した。
このほかに中絶手術を5回。
6回目には医師の忠告によって不妊手術を受けた。
これが、凶行の前年のことである。

父親は植木職人だったが、腕のいいほうではなく稼ぎも悪かった。
上の子ふたりが小学校にあがって手がかからなくなったので、長女も勤めに出ることにした。

なにしろ、本来ならまだ30前の女性なのである。
人前に出るようになってからみるみる綺麗になり、化粧もし、身なりにも気をつかうようになって、ようやく「年相応」に見えるようになった、というからそれまでのひどさが想像できるだろう。

彼女はその勤め先で、初めての恋をした。
相手も彼女を想ってくれた。
すべてを話しても彼は受け入れ、「不妊手術は、再生が可能だっていうから大丈夫だよ」とまで言った。

「それじゃあ、再生手術すれば、あんたの赤ちゃんが産めるんだ」

そう言って彼女は泣いた。
好きな男の子供が産めるなどとは、それまで考えたこともない人生だった。
ただし、ふたりは数回手を握った程度の仲でしかなく、結婚を約束していたものの本当に「清い関係」だった。

長女は父親が酒を飲んでいないときを見はからって、結婚したい相手がいると打ち明けた。
しかし父親は、「そいつはお前を一時のなぐさみものにする気だ。大体それじゃ、俺の立場はどうなる。これからその若僧の家へ行って、火をつけてやる」と言って荒れた。

しかも勤め先をやめろと迫り、毎日家にいることを約束させられた。
恋人と連絡をとりたくとも、監視が厳しく、とてもできなかった。
しかもその一件以来、毎晩1回だった父との性交渉が2回、3回と激しいものになり、異常性も増した。
とくに長女は不妊手術以来完全な不感症となっており、精神的にも肉体的にも、苦痛以外のなにものでもなかった。

怒りと憎悪が彼女の中で鬱屈していった。

事件当夜、父親はいつものように実娘を犯した。
長女がはっと目をさますと、父親は全裸で焼酎をあおっていた。
彼女が目覚めたことに気づくと、いきなり父親は彼女をののしった。

「売女め。俺は苦労しながら今までお前を育ててきたってのに――なんだ、十何年も俺を弄んでおきながら、捨てようってのか」

これにはさすがに、長女もかっとなった。
そしてそれはすぐさま相手にも通じたようだった。

「なんだ、殺んのか、やれんならやってみろ」

「馬鹿言うな、父ちゃん」

「俺は頭にきてんだ、男んとこに行くんなら行け。子供は全部始末して、どこまでも追いかけてやっからな」

そう言うなり、再び彼女を押し倒そうとした。
その肩を突きのけると、泥酔していた父は布団に仰向けに倒れた。
彼女はそこへのしかかって押さえつけ、衝動的に浴衣の腰紐を手に掴んだ。


「なにすんだ、殺すのか?――へっ、やるなら、やれ」

両手をどさりと投げ出したまま、父は無抵抗であった。
彼女は泣きながら父親の首を絞め、こう訊いた。

「くやしいか?」

「くやしかねえ、くやしいのは、おめえのほうだろが」

「くやしくねえ、くやしくなんかねえ」

嗚咽しながら、彼女は実父の首を絞め続けた。
やがて鼻孔から血が噴き出し、父は絶命した。

この裁判の弁護を無報酬で引き受けた大貫大八弁護士は、尊属殺人罪の適用をすべきではないと主張した。
裁判官はこれをほぼ全面的に受け入れ、彼女を懲役3年とした。

さらにこの年、最高裁は他に2件の尊属殺人事件の上告審をかかえていた。
最高裁はこれらを一括して審理した結果、大法廷で尊属殺人は違憲であるとの判断をくだす。
ちなみに15人の裁判官のうち、これを合憲としたのはたった1人であった。

これにより、長女は懲役2年6ヶ月、執行猶予3年となった。
事実上、日本史から尊属殺人罪が違憲とされて抹消された歴史的瞬間である。

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